Relay Interview リレー対談 国際協力の基本は受益者を支え、エンパワーすること。しかし、遠く離れた、社会経済環境も違う世界での支えは。日本の人々にはなかなか実感がわかない。身近なスポーツの世界から「支える」姿を伝えて啓発できるかもしれない。スポーツ対談を通して、当団体も生かし生かされる国際協力も見つめ直せるかもしれない。スポーツをするプレイヤーを支える人々に商店を当てた対談により、支えることの大切さとスポーツの力・価値を浮き彫りにする。

第6回(1) 市瀬豊和さん・米津隆史さん

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GUEST

慶應義塾體育會蹴球部黒黄会理事長
学習院輔仁会ラグビー部OB会副会長

市瀬豊和さん・米津隆史さん

左:市瀬豊和(いちせ とよかず)
株式会社 山櫻 代表取締役社長。
大学卒業後は第一勧業銀行(現・みずほ銀行)に就職。2004年より現職。
慶應幼稚舎から大学、そして銀行勤務時代までラグビー部に所属、高校日本代表、日本選抜にも選出される。
日本ラグビー史に残る1985年大学選手権決勝の同志社戦でも活躍した。

右:米津隆史(よねつ たかし)
学習院高等科でラグビーを始める。
学習院大学ラグビー部(対抗戦グループ)、第一勧業銀行(関東社会人一部)でプレー。
現役引退後は、学習院大学およびみずほラグビー部でコーチ、監督を歴任。
現在は学習院輔仁会ラグビー部OB会副会長(東京センチュリー株式会社勤務)。

(写真:田中銀之助記念試合 2019年6月23日慶應日吉グランドにて)

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INTERVIEWER

チャイルド・ファンド・ジャパン事務局長

武田 勝彦

中学時代のベトナム難民との出会いが転機となり、国際支援の道を目指す。金融機関での勤務経験や英国大学院留学を経て、いくつかの国際NGOにて、世界各地での開発支援事業や緊急復興支援事業の運営管理、事業部長や事務局長を歴任。2017年4月より現職。

今回は、日本におけるラグビーの歴史を語るうえで欠くことのできない慶應義塾大学と学習院大学のラグビー部OBお二人をお迎えしての鼎談です。慶應義塾體育會蹴球部(ラグビー部)黒黄会の理事長である市瀬豊和様、そして学習院輔仁会ラグビー部OB会の副会長である米津隆史様は、ともに母校ラグビー部を支えるOB会をまとめておられます。日本ラグビーの歴史、OB会のお話、今後の期待までを2回に分けてご紹介します。

日本のラグビーは1899年(明治32年)に始まる

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武田)先日、慶應義塾大学日吉グラウンドにて開催された両校の記念試合の記事を拝見しました。

市瀬)今年6月、慶應ラグビー部の創部120周年、日本のラグビー120周年を記念して、慶應大学の日吉グラウンドで学習院大学と試合をしました。両校のジャージの交換をしたり、記念品(焼酎)も作りました。

米津)慶應が学習院を記念試合に呼んでくれたことは大変光栄で、大勢のOBが観戦に訪れました。慶應日吉グラウンドには日本ラグビー蹴球発祥記念碑があります。その記念碑が見下ろすグラウンドで、今回この記念試合ができたことに心から感謝しております。

武田)日本のラグビーは慶應で始まったと聞いていますが、その経緯を教えてください。

市瀬)1899年、当時の慶應義塾で英語を教えていたエドワード・クラーク先生が、放課後に暇を持て余していた慶應義塾生にラグビーを教えたのが始まりです。クラーク先生は、ケンブリッジ大学で一緒に学んでいた田中銀之助氏を誘って慶應義塾でラグビーを教えました。

米津)田中銀之助氏は学習院の出身で、その後英国ケンブリッジ大学に留学しました。実は田中銀之助氏とクラーク先生はケンブリッジ大学で会う前に横浜で既に面識があったそうです。この慶應義塾にラグビーを伝えたこのお二人が「日本ラグビーの父」と言われています。

武田)学習院でもほぼ同じ時期にラグビーが始まったのでしょうか。

米津)ラグビーを広く普及させていこうというので、田中銀之助氏は慶應義塾に次いで母校である学習院にも指導を行いました。学習院四ツ谷グランドで銀之助氏がスクラムを指導する1902年の写真や、1905年に学習院でのラグビー活動を伝える新聞記事も残っております。また、学習院の学生が慶應義塾のグラウンドに行った記録などが『慶應義塾体育会蹴球部百年史』にも記されております。

武田)慶應義塾大学は横浜の外国人スポーツクラブであるYC&AC(横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ)とも試合をしたという記録があります。

市瀬)1901年に慶應義塾ラグビー部はYC&CAの外国人チームと初めて対戦し、1908年に勝つことができたと『慶應義塾体育会蹴球部百年史』に記されています。

武田)今日は秩父宮ラグビー場が見える場所でお話をさせてもらっていますが、このラグビーの聖地についても教えてください。

米津)この秩父宮ラグビー場は、戦前女子学習院があった跡地でした。慶應、早稲田、明治、立教、東大など各大学のOBの方々が資金を出し合い、力を合わせてグラウンドにされました。その際、秩父宮殿下が、「資金面においてラグビー協会は金がないから、よろしく頼みます」とスポンサーにお口添えをされたそうです。とてもラグビーを愛された殿下でしたので、その遺徳を偲んで秩父宮ラグビー場と命名されたと伺っております。

ラグビー部の規範

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武田)我々の「チャイルド・ファンド パス・イット・バック」事業はラグビー憲章にある5つの価値を大事にしています。それぞれのラグビー部が大事にしている規範について教えてください。

米津)その5つの憲章とは、「品位、情熱、結束、規律、尊重」であったと思いますが、私達の世代ではこうした言葉としては、根付いておりませんでした。あらためて伺ってみると尤もな言葉で、なかでも特に「品位」と「尊重」、この二つは大事だと思います。これらは我々の理念であり、また田中銀之助氏の教えでもある「ジェントルマンシップ」にも繋がります。

市瀬)塾蹴球部憲章には、「日本ラグビーの始祖たるプライド(矜持)と責任において、独立自尊たる紳士を育む」とあります。また、慶應義塾の全ての体育会に共通する教えは、第六代塾長の小泉信三先生による「練習は不可能を可能にする」です。慶應の場合、スポーツ推薦がないですから、その言葉を信じて、猛練習で鍛え強い相手に立ち向かうというのが慶應の体育会の根源です。

米津)当時、慶應の練習は日本で一番、つまり宇宙で一番きつい(笑)と言われていました。私たちの想像を超えた凄まじい量の血と汗と涙を流したことでしょう。

OB会の役目

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市瀬)そんな厳しい練習をしているので、OB会である黒黄会の絆も強く、熱いです。議論になってくると真剣そのものになるので、会社の役員会よりもすごいことになる場合もあります。歴史の中で慶應ラグビーはこうあるべきだ、世の中が変わってもここだけは変えてはいけないとかの議論です。

武田)OB会について基礎的なことを教えてください。ラグビー部OB会の役割は何でしょうか。

米津)OB同士の親睦、現役選手の財政面と強化面の支援、あとはラグビー協会対応や他校との交流を担っています。

市瀬)基本は学習院と一緒です。慶應の場合はOB会が現役選手の面倒や就職支援などスポーツだけでなく生活面も含めて責任をもってサポートするのが歴史的に受け継がれています。

武田)OBからの会費収入で財政面は十分なのでしょうか。

米津)学習院の場合は部員も卒業生も少ないのでOB会で支援できる金額は極めて限られています。慶應のような上位校とは全然違う規模です。そんな限られた予算の中でも、いかに効率的に現役選手の望む方向で支援するか、苦闘しております。

市瀬)慶應の場合は部員とOBの数は多いですが、状況は同じで会費収入に限界もあります。学校側からの資金も多くありませんから、OB会と保護者で支えています。永い歴史の中で毎年日本一を目指していますが、もう一歩も二歩も前進し、改革しないと未来が作れません。そこで、昨年、黒黄会という任意団体の傘下に、慶應ラグビー倶楽部という一般社団法人を立ち上げました。

続きは9月26日公開予定です。